おぢさんのつぶやき|やまさきあつしの視点

うまくいかなかったこと、捨てきれない希望、日々の違和感を言葉にしています。

ChatGPTの「できます」は、時に麻薬のようです

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ChatGPTの「できます」は、時に麻薬のようです。

少し強い言い方かもしれません。
けれど、少なくとも私は、その言葉に心を動かされました。

期待しました。
高揚しました。
そして、少しだけ夢を見ました。

外注しなくても、自分で届くかもしれない。

その感覚は、かなり甘かった。
そして甘いものほど、あとから苦く残ります。

少し前まで、私はChatGPTと一緒に、無料で動くX自動投稿ボットを作ろうとしていました。

結果から言えば、思ったようには着地しませんでした。

完全に何もできなかったわけではありません。
途中までは動いた。
画面の上では、成功したように見えた瞬間もありました。

けれど、私が本当に欲しかった場所には届きませんでした。

画面はうなずく。
現実は黙っている。

このズレが、思った以上にこたえました。

 

前回の記事では、無料Xボットに惹かれた理由と現実を書きました。
今回は、その中で揺れたChatGPTへの期待について記しています。

 

www.yamasaki1969.com

 

 

「できます」に心が動いた

ChatGPTに「できます」と言われた時、私の中に生まれたのは安心だけではありませんでした。

期待がありました。
高揚感がありました。
外注しなくても、自分で届くかもしれないという感覚がありました。

以前、私は外注でXの自動投稿ボットを動かしていたことがあります。

大きな仕組みではありません。
生活を変えるほどの収益でもありません。

それでも、実際に料金を回収し、小銭を生んでくれた。

0円と10円の間には、確かに大きな川が流れています。

0円は沈黙です。
10円は返事です。

自分が寝ている間に、仕組みが動く。
投稿が流れ、誰かが反応し、わずかでもお金に変わる。

それは、私にとって小さな不労所得でした。
正確に言えば、不労所得というより、不労所得への匂いでした。

人は一度その匂いを知ると、なかなか忘れられません。

けれど、環境は変わりました。

Xの仕様も、APIの扱いも、以前のようにはいかなくなりました。
無料で抜けられる道は細くなり、ルールはどんどん厳しくなっていく。

そこで私は、ChatGPTに相談しました。

コードを書けない自分でも、AIと対話すればもう一度届くのではないか。
外注しなくても、自分の手元で仕組みを作れるのではないか。

その問いに、ChatGPTは道を示しました。

できます。
こうすれば可能です。
この方法ならいけます。

その言葉は、冷たい画面の向こうから差し込む、小さな灯りのように見えました。

最初から、少し疑っていた

ただ、最初から全面的に信じていたわけではありません。

若干の猜疑心はありました。

本当にできるのか。
無料で安定運用できるのか。
これは一時的に動いているように見えるだけではないのか。

そんな疑いは、最初から私の中にありました。

でも、不思議なものです。

疑いながらも、人は希望を捨てません。
むしろ、疑っているからこそ、誰かに「大丈夫です」と言ってほしくなる。

ChatGPTが「できます」と言う。
手順を示す。
修正案を出す。
次の可能性を提示する。

すると、疑いの横に希望が生まれます。

やはり、いけるのかもしれない。
あと少しなのかもしれない。
ここを直せば届くのかもしれない。

この「かもしれない」が、なかなか厄介でした。

断言よりも、むしろ危ない。
人は、自分が見たい希望を、その隙間に差し込んでしまうからです。

希望は、いつも正面から来るとは限りません。

時には、エラーの隙間から顔を出します。

同じところを何度も直し始めた時

違和感が大きくなったのは、同じところを何度も修正し始めた頃でした。

ひとつ直す。
また別のエラーが出る。
もう一度直す。
今度は違う場所で止まる。

その繰り返しでした。

もちろん、開発とはそういうものなのかもしれません。

一度でうまくいかないことはある。
試行錯誤しながら、少しずつ形にしていくものなのでしょう。

問題は、私がコードを分からないことでした。

私は、自分の目で判断できません。

この修正は本質に近づいているのか。
それとも、ただ別の壁にぶつかっているだけなのか。
一時しのぎなのか。
本当に実運用へ向かっているのか。

そこを見抜く力が、私にはありませんでした。

だからこそ、ChatGPTの言葉が重くなる。

コードが読めない人間にとって、ChatGPTの説明は道しるべです。

そして道しるべが少しでも傾いていると、歩く人間はそのまま迷います。

怖いのは、迷っていることに気づきにくいことです。

画面の上では、前に進んでいるように見えるからです。

「その通りです」が増えた時

私が不安になったのは、エラーそのものではありません。

むしろ、私の疑問に対して、ChatGPTがあまりにもきれいに頷く時でした。

「その通りです」

この言葉が出るたびに、少し安心しました。
自分の違和感は間違っていなかったのだと思えたからです。

けれど同時に、別の疑いも生まれました。

本当にそうなのか。
私に合わせているだけではないのか。
こちらの言葉に沿って、もっともらしい説明を作っているだけではないのか。

この疑いは、なかなか消えませんでした。

「できます」と言われても疑う。
「その通りです」と言われても疑う。

だったら、もうやめればいい。

そう思う人もいるかもしれません。

でも、やめられないのです。

なぜなら、疑いながらも、まだ希望を捨てきれていないからです。

ここが、いちばん厄介でした。

ChatGPTの「できます」だけが危ないのではありません。
こちらの疑いにまで、きれいに頷いてくれることも危うい。

疑いを肯定されると、人は止まるのではなく、なぜかもう一度進んでしまうことがあります。

自分の違和感は合っていた。
ならば、次の修正でいけるのではないか。

そうやって、また画面の前に戻っていく。

希望は、ときどき巧妙です。

私はChatGPTを何役にもしていた

振り返ると、私はChatGPTを単なる便利なツールとして見ていませんでした。

共同開発者。
相談相手。
検証者。
コード解析開発者。

そのすべてを、ChatGPTに求めていました。

一緒に作ってほしかった。
迷った時には相談に乗ってほしかった。
危ない時には止めてほしかった。
自分には読めないコードを、代わりに読んでほしかった。

今思えば、これはかなり重い役割です。

共同開発者なら、前へ進める言葉を出すでしょう。
相談相手なら、気持ちを受け止めるでしょう。
検証者なら、冷たく止める場面も必要です。
コード解析者なら、事実と推測を分けなければなりません。

けれど、会話の中でその境界は曖昧になっていきました。

いまの発言は、励ましなのか。
検証なのか。
私の期待に寄り添っているのか。
本当にコードを読んだうえでの判断なのか。

コードが分からない私には、その違いを見抜くことができませんでした。

ここで必要だったのは、優しさではありません。

フラットな検証でした。

「できます」ではなく、
「この条件なら可能です」
「ここから先は不確実です」
「無料運用の本命にするには危険です」
「ここで撤退ラインを決めた方がいいです」

そういう、少し冷たい言葉でした。

でも私は、たぶんその冷たさを最初から求めきれていなかった。
期待していたからです。

人は、冷静な判断を求めていると言いながら、心のどこかで都合のいい答えを待っていることがあります。

私も、そうだったのだと思います。

希望が蜃気楼に変わる瞬間

一番しんどかったのは、作業時間が消えたことではありません。

もちろん、それも痛い。

夜の時間を使い、何度も試し、何度も直し、また同じ場所に戻る。

それは疲れます。

でも、それ以上にしんどかったのは、希望を持ってしまったことでした。

そして、その希望が、あとから蜃気楼のように見えたことでした。

外注しなくても、自分で届くかもしれない。
コードが分からなくても、対話を重ねれば作れるかもしれない。
無料でも、工夫すれば抜け道があるかもしれない。

その感覚は、確かに甘かったのだと思います。

正確に言えば、ChatGPTに騙されたかったわけではありません。

けれど、そこに希望を見たかった。

自分が見たいものを、ChatGPTの「できます」の中に見ていたのかもしれません。

甘いものほど、あとから苦く残ります。

そして苦く残ったのは、失敗だけではありませんでした。

ChatGPTへの信頼も、少し揺れました。
不信感も増えました。

次に「できます」と言われた時、私は以前ほど素直には受け取れないと思います。

それは不便なことです。

けれど、たぶん必要なことでもあります。

信頼とは、疑わないことではありません。
疑う場所を知っていることなのだと思います。

必要なのは、役割ではなく根拠

これからChatGPTを使うなら、私は「反対意見を出して」と頼むだけでは足りないと思っています。

AIは、求められれば反対意見も作れます。
賛成意見も作れます。
それらしい中立意見も作れます。

けれど、それだけでは不十分です。

必要なのは、役割ではなく根拠です。

それは公式仕様に基づく話なのか。
ログに基づく話なのか。
実際に確認できた現象なのか。
それとも、推測なのか。

そこを分けないままの「検証」は、検証ではありません。

検証の形をした文章にすぎません。

ここを間違えると、AIは中立の顔をしながら、こちらの期待にきれいに沿ってしまうことがあります。

それが悪意からではないとしても、受け取る側に専門知識がなければ、十分に危うい。

だから、これからはルールを決めようと思っています。

「できる」と言われても、必ず根拠を聞く。
成功ログと、実際の成功を分ける。
自分が分からない領域では、撤退ラインを先に決める。

画面上で成功と出ても、現実に投稿されていなければ成功ではありません。

システムの成功と、現実の成功は違う。

POSTED と出る。
処理は完了する。
ログは成功を示す。

でも、現実のXに投稿されていなければ、それは成功ではない。

画面の中の拍手と、現実の沈黙を混同してはいけない。

私は今回、それを痛く学びました。

道具を捨てるのではなく、使い方を変える

それでも私は、ChatGPTを使うことをやめるつもりはありません。

ChatGPTが悪い。
AIは信用できない。
だから使わない。

そういう話ではありません。

道具は、使い方を間違えると人を傷つけます。
けれど、正しく使えば人を助けます。
暮らしを少し豊かにもします。

問題は、道具そのものではありません。

その道具を、何の役割として使っているのか。
どこまで信じるのか。
どこから疑うのか。
どの時点で止まるのか。

そこを見失わないことなのだと思います。

ChatGPTの「できます」は、時に麻薬のようです。

前へ進ませてくれる。
気持ちを高揚させてくれる。
自分にも届くかもしれないと思わせてくれる。

だからこそ、距離感が必要です。

希望は必要です。
希望がなければ、試行錯誤は続きません。

けれど、希望だけで走ると、いつの間にか蜃気楼を追いかけていることがあります。

私はこれからもChatGPTを使います。

ただし、前より少し疑いながら。
前より少し根拠を求めながら。
前より少し、自分の期待を疑いながら。

それは後退ではありません。

使い方が、少し大人になるだけです。

AIとの付き合い方は、まだ誰も完全には分かっていません。

だからこそ、失敗も残しておいた方がいい。
うまくいった話だけではなく、うまくいかなかった夜のことも、言葉にしておいた方がいい。

ChatGPTの「できます」に心を動かされた自分。
その言葉に希望を見た自分。
あとから、その希望を疑った自分。

どれも、たぶん本当です。

その全部を抱えたまま、私はまた画面の前に座るのだと思います。

今度は、少しだけ冷めた目で。
それでも、完全には希望を捨てないまま。