おぢさんのつぶやき -山崎篤史ー

とうとう50代突入してしまいました。白髪が増えてきたおぢさんですが、たまに書き込もうかなぁと思います。

「話が通じない人」は敵じゃない――違いを超えて信頼を築く方法

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話が通じない人と出会ったとき、
あなたはどうしますか?

 

 

言葉で通じ合える——人はそう信じたい生き物です。

でも現実は、もっと不器用で複雑です。

いくら丁寧に伝えても、誤解されてしまう。

説明を重ねるほど、なぜか話がこじれていく。

そんな経験、一度や二度ではないはずです。

職場で、家庭で、友人との関係の中で。

「この人には何を言っても無駄かもしれない」

そう思った瞬間、心に重たい壁が立ちます。

でも、そこにあるのは本当に“通じなさ”なのでしょうか?

その正体を静かに見つめていくと、違う景色が見えてきます。

 

 

「通じない」のではなく、「前提」が違う

人は皆、それぞれの“世界の見え方”で生きています。

育った環境も、経験も、価値観も違います。

だから当然、同じ言葉でも違う意味に聞こえる。

たとえば「真面目にやる」という言葉。

ある人にとっては「遅くても丁寧に」ですが、

別の人にとっては「期限を守ること」が最優先かもしれません。

同じ言葉が違う意味で届く。

これでは、話がかみ合わなくて当然です。

話が通じないのではなく、土台が違うのです。

 

 

言葉は「キャッチボール」より「種まき」

よく「言葉のキャッチボール」と言います。

でも実際の会話は、それとは少し違います。

伝えた言葉が、その場で返ってくるとは限らない。

むしろ、会話とは種まきに近いのです。

言葉を丁寧に撒いても、すぐには芽は出ません。

相手の心の土壌が育っていなければ、根付かない。

それは時に虚しく感じるかもしれません。

でも、だからこそ希望もあるのです。

数日後、数ヶ月後、ふとした瞬間に芽吹くこともある。

あなたの言葉は、確かに残っているのです。

 

 

通じない相手は「敵」ではなく「鏡」

イライラする。

腹が立つ。

話が通じない相手に、私たちはそう感じます。

でも、その怒りの根っこには何があるでしょうか?

「わかってもらえない自分」への無力感ではありませんか?

理解されたい。認めてほしい。

その願いが否定されると、人は孤独を感じます。

だから、つい相手を“敵”と見なしてしまうのです。

でも視点を変えれば、その人は“鏡”かもしれません。

自分とは違う世界の見方を教えてくれる存在。

違いに出会うたび、自分の輪郭が少し見えてくる。

そう考えたとき、関係はほんの少しやわらぎます。

 

 

「理解=同意」ではないという視点

ダライ・ラマ14世はこう語っています。

「真の理解は、同意することではなく、
違いを尊重することから始まる。」

この言葉に救われる人は、きっと多いはずです。

人は「同意されたい」と思って話します。

でも、すべてに同意してくれる人はいません。

それでも、尊重してくれる人はいる。

「あなたの考えは私とは違うけれど、大切に受け止める」

その姿勢が、信頼の土台になるのです。

 

 

話し合いは戦いではなく「祈り」

通じない人を前にすると、私たちは構えてしまいます。

言葉を武器にして、自分を守ろうとします。

でも、本来の対話とは違います。

対話とは、変えてやろうとするものではなく、

ただ信じて、委ねるようなものです。

相手を責めず、焦らず、まっすぐに向き合う。

それができたとき、空気が変わります。

沈黙さえも、語りかけてくるようになります。

あなたの姿勢が、相手の心を溶かしていくのです。

 

 

最後に──「通じなさ」は関係の入り口

世の中には、確かに話の通じない人がいます。

でもそれは、あなたのせいではありません。

そして、相手が悪いとも限りません。

理解されないという痛み。

伝わらないという孤独。

そのすべてを抱えながらも、なお関わろうとする。

その行為にこそ、人間の成熟があります。

通じないことは、終わりではありません。

むしろ、関係の始まりなのかもしれません。

通じなさを超えるには、時間も、忍耐も、優しさもいります。

でも、その先にはきっと、静かな光がある。

だから、あきらめないでください。

言葉が届かなくても、あなたの姿勢は、届いているのです。